劣等感と焦燥感と敗北感のミルフィーユ

26才営業職女性が過去の思い出にすがり続ける無様な様子。

年齢を重ねるごとに人生の難度が上がるシステム

 

年々人生の難度が上がっているように感じる。

(というより、加齢とともに人生の解像度が上がり、

見えていなかった困難に気付き、もともと高かった難度に気が付く仕組み。)

収入に見合った過不足のない人生を送りたいと思っても、

いわゆる「普通の会社」に勤めて、「普通の生活」を送ることはかなり難しい。

 

私には物心ついてからずっと結婚願望がある。

結婚生活に憧れを抱いている訳ではない。

結婚したい理由は大きく2つあると考えている。

 

一つは、「孤独」という感情に耐えられないから。

私は以前、恋人がおらず自信をもって友達と呼べる人もいない時期を長く過ごしていた。

一人で過ごすことで感じる自由なんてたかが知れていて、

一人で生きる孤独なんかよりも、誰かと過ごす面倒くささの方がよっぽどいい、

ということをその時期に強く感じた。

 

二つめは、いわゆる「普通の人生」を送りたいから。

(ここで言う「普通」はかなり幅広く捉えていて、見方よってはかなり幸せな場合も含んでいる。

つまり、健康で衣食住に困らず安全な生活を送ることは、それだけでも十分に幸せであるということ。)

私は生まれてから今まで、細かい差異を無視すれば、

かなり普通な、一般的な、敷かれたレールを走るような人生を送ってきた。

それは私にとって奇跡的なことで、これからもそんな風に生きていきたいと考えている。

「多様化」が謳われる時代とは言え、

まだまだ家庭を持つ方がより「一般的」と言える世の中である。

そのような中、友人や社会における「少数派」にはなりたくないのだ。

 

しかし年齢を重ねるごとに、自分が思う「普通の人生」を送ることは、

その形が少しづつ具体化されていくのにつれて、

思いのほか難度の高いことであると気付かされてしまった。

 

20代も終盤に差し掛かり、

「この人は将来のことをどう考えているのだろうか」

「そもそも、結婚すること自体コスパが悪いのではないか」

「いや、そんな悠長なことを考えられるのは若いうちだけだ」

などと月並みなことで悩むようになった。

 

たとえ結婚したところで、

妊娠・出産のタイミング、経済的負担、子育ての方針、住まいのこと、老後の資金、両親の介護、勤務先の将来性、自身含めた家族の健康・・・

挙げればきりがない程、死ぬまで一生頭を抱え続けることは必至だ。

 

「それが人生」と言われたところで、

私の舐め腐った根性では「そっか、がんばろ!」とは思えない。

そして、毎日このようなことを考えあぐねている訳だけど、

特に結論は出ていない。それが人生だから。

 

 

日常とは劣等感・焦燥感・自己嫌悪との戦い

最近の私はというと、
出社をすれば、絶えず周囲の人間と比較した劣等感に苛まれ、
在宅勤務をすれば、自己嫌悪・今後の人生への焦りなど様々な感情に襲われる。

入社以来営業職に従事している訳だけれど、
適性のなさは今も変わらず、更に最近では著しくモチベーションも低下している。

この時勢の中、従来の出張・訪問を基本とした営業スタイルは180度変わり、
Webを利用した打合せがほぼ100%となった。

もともと、「営業職なんてすぐに辞める」というつもりで過ごしていたが、
自分の努力不足と保守的な姿勢により、新たな環境へ飛び出すこともなく、
ただただモチベーションが下がり続けていることをひしひしと感じる。
何もない自分のまま今の会社を離れても、現状より悪化することは必至だろう。

開き直るタイプの性格であれば全く問題はないだろう。
私の場合、生まれてから一度も人生が忙かったことがなく、常に「暇コンプレックス」を抱えている。
本当は、やるべきことを明確にし、出来ることを(出来る範囲で)しっかり遂行したいという気持ちで一杯だ。

そんな気持ちのまま出社してしまうから、
「やるべきこと」に囲まれて忙しそうにしている人々を見ると、
私の暇コンプレックスが刺激され、劣等感と焦燥感に苛まれ、自己嫌悪が止まらなくなる。

でも、営業職に適した頭がない。
今自分がなにをするべきで、具体的にどういうやり方が適しているのか、考えて考えて考えても行き詰まる。

とにかく劣等感と自己嫌悪を紛らわす為、
身に付けるべきと感じるスキルに関連した勉強をしたりもする。
勉強中は頭がまっさらになり気も紛れるが、
この行動は「営業職から離脱する」ことに直接影響を与える訳ではない。

『ぬるま湯につかった給料泥棒』
激務の人からすれば、ただただ鬱陶しい(又は羨ましい)存在なのだろう。

自分の意思で生まれてきた人間は一人もいない

この世に自分の意思で生まれてきた人は一人もいない。
けれど、ひと度生まれてきてしまえば、死ぬまでの人生は自己責任。
ただ生きるだけでもお金はかかるので、
莫大な遺産を受け取ることが出来る人以外のすべての人は、基本的には働かなければならない。

このような状況下で、自分の「出来ること」と「やりたいこと」が一致した幸せな人はほんの一握りだと思われる。
やりたいことで生きる為に死ぬ気で努力した人もいるだろう。そんな人々のことは心底尊敬する。

私はというと、これから生きていく上で最低限必要なお給料と当面の安定を手に入れる為、
正社員として就職し、気が付けば5年目を迎えていた。

入社から4年間、営業適性がないことを絶えず感じながら、なんだかんだやり過ごしてきた。
入社当初の焦りから冷静さを取り戻し、
俯瞰的に見てみれば、適性のない私でも続けられる程「ゆるい」会社だと気が付いたからだ。
それならばと、いかにして低燃費な会社員生活を送るかを最重要課題として、割り切って過ごしてきた。

その分、友人らと比較すれば収入は少ないと思われる。
ブラック企業でもない限り、
基本的には働きに見合うお給料が支給され、また、支給される金額を上限とした働きをするものが会社員だと考えている。

だから私には、興味の欠片もないこの仕事をする為に、
シャカリキになって働こうという気が1ミリたりとも沸いてこない。

それでも、そういう人が視界に入る環境にいるとさすがに、自分の無能さに嫌気が差し、いつもの自己嫌悪が止まらなくなる。

そしてまた、冒頭の考えに至る訳だけれど、
これは結局、努力しない言い訳を無理矢理作り出して、
自分に言い聞かせているだけな気がしてきた。


人生は近くで見ると悲劇、遠くで見ると喜劇

 

時々無性に中学~高校時代に心酔していたバンドの曲が聴きたくなったりする。

聴いてしまったら最後、ぶつけようもない懐かしさに飲み込まれそうになる。

 

常々アピールしてきた「高校時代の完璧な思い出」

 

年齢を重ねるごとに、これのありがたみを改めて実感する。

自分の中で納得出来る、後悔のない時期の記憶と、

そんな風に過ごすことが出来たという事実があるだけで、

日常生活でやるせない気持ちに襲われたとしても、気持ちを保つことが出来る。

 

そういうキラキラした記憶を呼び起こしたくなって、

久しぶりに高校時代に書いた日記を読み返したら拍子抜けした。

そして、「人生は近くで見ると悲劇、遠くで見ると喜劇」という言葉を思い出した。

 

何度も言うように、高校時代の思い出は、

私の中でゆるぎない絶対的な最高の3年間としてパッケージングされているけれど、

当時のありのままの言葉を読み返すと、

(一生懸命でキラキラとしている部分もあるけれど、)醜い部分も残されていた。

 

そして、最近の私もまさにこの言葉の通りだ。

毎日の中でテンションの下がることや、ムカつくことはあるけれど、

以前の自分のように必要以上に悲観的になることはないし、

俯瞰的に見た自分の人生に対してポジティブな気持ちを抱くことが出来ている。

 

これが大人というものなのか。

学生時代の知り合いの成功を耳にすれば、思わずネガティブな自分が出てきてしまうけど、

自分の中で絶対的な思い出があるお陰で、必要以上に落ち込んだり妬んだりしなくて済む。

ありきたりな表現だけど、想像していた未来とは違っても、

人と比べず自分が納得できる生き方をしていけばいいんだということを再認識した。

 

やっぱり、ありきたりな表現こそ真理なんだな。

だからこそ、同じような内容が言い回しを変えて何度も語られるのだろうな。

 

 

 

 

全ての原動力が「怒られたくないから」になってしまったのはいつからだろう

人生で三度目の堕落期間に突入している。
第一に大学受験期間、第二に就活期間、そして今である。
(偶然にも四年に一度訪れているようだった。)


世の中は新型感染症の影響を受け、様々な分野で改革が行われている。
私の勤務先も例外ではない。
B to Bメーカーの営業職である私の出勤は「不要不急」
生まれて初めての在宅勤務を開始してから一月以上経過している。


過去二回の堕落期間を乗り越え、社会人然として過ごしてきたこの三年。
徐々にそれらしい姿に変わりつつあったというのに、
在宅勤務の影響でめっきは完全に剥がれてしまった。


思い起こせば、一度目の堕落を味わってからというもの、
全ての行動の原動力は「怒られたくないから」になってしまっていた。
(挫折ではなく堕落であることを改めて主張したい。)


つまり、怒る「人」がなければ、何も出来ない人間であるということだ。
会社でサボれば怒られる。怒られたくないからサボらない。
訪問件数が少ないと怒られる。怒られたくないからアポイントを打診する。
会議や商談時に準備不足だと怒られる。怒られたくないから準備する。


対面でのコミュニケーションがなくなった今、心が打撃を受けるような怒られ方をする機会はなくなった。
すると、本来の私の姿が丸見えになり、何もしない人間に戻ってしまったのだ。
三年かけてゆっくりと矯正してきた社会人としての私は数週間前に消え去った。


「怒られたくない」ただそれだけの理由でなぜ働くのか、
それは、最低限の動力で、ある程度のお給金を頂ければそれでいい、という考えのもと生きているからである。


もし、生きることにお金が一切かからないとすれば、
ほとんどの人間は遊び呆けるだろう。
それでも、生まれ持った好奇心や向上心に基づき、研究や社会貢献活動に勤しむ者もいるだろう。
私はそのどちらにも属せず、ただ「何もしない」人間になると確信している。


「生きる」現実ではお金がかかる行動である。
だから働く訳だけれど、そのなかでもやりがいや向上心、ライバル心を持ちながら働く人間は恐らく、
お金がかからない世界線でも何かに一生懸命になるし、人目のない在宅勤務でもきちんと成果物を持ってくるのだろう。


と、在宅勤務をサボり、自己嫌悪と罪悪感に苛まれる自分の行動を、
ここまで回りくどい表現で正当化することも、怒られない為の言い訳に過ぎないのだが。(誰に)

毎日幸せ


毎日イライラするし、デブな自分に嫌気がさすけど
食べることは止められないし、ジムに行くタイミングが合わない
移ろうとも考えたけど、価格帯とかサービス内容的にそれも適切と思えない。

常に舌打ちしてる

「子ども嫌い」は許せない。
自分だって子どもだったくせに、と思うから。

だけど私はオジサンが嫌い。
オジサンは別の生命体。
だってこのまま年を取っても、オジサンになることはないから。
凝り固まった古い価値観と、薄ら寒い笑えないジョークと、
「セクハラギリギリ攻めても俺なら冗談に出来る」という謎の思い上がり、
臭い対策への無頓着さ
他人の容姿をネタにする無神経さ
食後にコーヒー飲めば口臭リセットされると思ってる謎の理論

出来れば私は ロココ時代のおフランスに生まれたかった

自由と安心はトレードオフ

紆余曲折ありまして、数ヵ月前に彼氏が出来ました。
兼ねてからの知人です。

ずっと孤独と自己嫌悪に苛まれ、
普通の人間がみんな経験している「恋愛」と言うものが、
どうしてこんなにも出来ないのだろうかと劣等感を覚える日々でした。

物心がついてから長年の間、
親以外の他人から愛情を受ける日々を渇望していました。
しかし、それは案外呆気なく、想像していたような「震える程の感動」はありませんでした。
もはや日常になりつつあるのでしょうか。

生物学上も、価値観も別々な相手と、
真剣に人間関係を築くことがこんなにも大変なことだなんて知るよしもありませんでした。
その努力をしてきたことを考えると、若い頃から恋愛に勤しむ人々には頭が上がりません。

そして、ついに、
恋人がおらず、孤独だった頃の「自由」に憧れてしまうのです。

でも、ここで負けてはいけません。
私はこの自由を手放して、「誰かといる安心」を手に入れたのだから。

そんな葛藤をしながらも、楽しい日々や幸せを噛み締めて、
気を引き締めて生きていかなければ、、、