劣等感と焦燥感と敗北感のミルフィーユ

29才女性 人生へのとめどなき、根拠なき不安を解放する日記

子供のままでいたかった


最近の私は自分を変えて、人生を好転させたいと考えていました。

そのために、様々な場面でこれまでと少し考え方を変えて、毎日は楽しくなり始めました。

しかし、ふとした瞬間から、
将来への絶望感が全身を蝕み、
生きることが辛く悲しいことのように感じられるのです。

もちろん、派手なことがなくても、
毎日健康体で目覚め、三食温かく美味しいご飯が食べられていることはこの上ない幸せであり、
この悩みは贅沢なことだと分かっています。

比べるのはいつも、私よりも豊かでおしゃれで「勝ち組」な人生を歩んでいる女性です。
彼女たちのことが頭をよぎると、
私の地味で貧乏な将来が想像されてしまうのです。
そうすると、どうしようもないほどの焦りと虚しさと劣等感に襲われ、生きていくことが憂鬱になってしまうのです。


いつだって良いときは過去で、
これからはただひたすら歳を取り、容貌も体力も衰え、楽しみも少なくなり、やがて稼ぐこともできなくなり、困窮する未来がやってくるだけだから。

楽しかった子供の頃や、何も知らなかった学生時代を思い出すと、切なくなります。

どうして他の人は、お金もなく、見た目もよくないのに一生懸命生きられるのでしょうか?
私はもう未来がこわいです。
ただでさえ持っていないものが、これからさらになくなっていくのですから。
世間的にはまだ若いと言われる22才。
私はいつも過去と比べてしまうから、もう若いとも思えません。


ひとつだけ幻想を抱いています。
自分より稼いでいる人の集まる婚活パーティーに、
まだ女子大生を名乗れるうちに参加して、
人脈の一つや二つでも手に入れたいものです。

ここから人生やり直せますかねえ?

 

大学4年間のうち半分以上は後悔に費やした。

 

始めは高校時代への固執、

それが薄れるとクラスメイトとの付き合い方、

サークルへの向き合い方、

アルバイトの選択、

ゼミの選択、

就職活動全般、

あの時ああしてればなんてまさに「タラレバ娘」みたいなこと、

 

 

大学1年生のころの写真を見返したら、

希望に溢れてた感覚とか、それがだんだん不安に変わる感覚とか、

ライブにしか楽しみを見いだせなかった感覚とか、

手に取るように思い出した。

 

 

そして、若くて無敵で、人生で最も自由なこの4年間を、

私は本当に無駄にしてしまったことに改めて気づかされた。

 

後悔と、親への申し訳なさと、加齢への焦り

 

一気に湧き上がってきた。

 

でも、なんとかしてやり直したいと、珍しく心の底から思った。

もしできるなら、もう一度自分の人生をいいと思える時を過ごしたい。

 

人や環境のせいにしてた自分のことずっと恥じてたけど、

それだけじゃ甘かった。

改善する努力を怠りすぎていた。

 

もう22歳。自分のなかでは終わってると思ってた。

けど、某人気ドラマでも「自分に呪いをかけないで」って言ってた。

自分を否定することで、失敗への保険をかけたつもりになっていたけど、

自分が生きづらくなるだけだし、なにより今みたいに胸が苦しくなるほど後悔するはめになる。

 

自分を客観視できない。

けど、変わりたい。

後悔ばかりする自分が嫌い。

人と比べる自分も嫌い。

何もかもあきらめたかのように人生悲観して逃げてるだけの自分が嫌い。

精神的にクズすぎて叫びたくなるほど自分が嫌い。

唯一人から褒められていた背の高さと細さも今は手放してしまった。

なんの特徴もとりえも特技も趣味もないつまらない人間。

早くよくなりたい。

 

 

クソみたいな女子大生(22)のクソみたいな年越し

ふと思った。
どうしてこんなにもワクワク感のない年末なのだろうか

世間やテレビの盛り上がりと反比例する私のテンション。
いつもなら、たとえつまらない日常を送っていても
年末年始くらいはちょっとそわそわしたり、
新しい気持ちになったりした。
今年はいくら頑張っても気分が盛り上がらないし、毎年かじりつくように見ていたテレビも見た感覚がないくらいでしか見なかった。

テレビが煽れば煽るほど、
12時を回った途端にCMが新年感を出せば出すほど、
まるで反抗期の中学二年生かのように、
「やめてくれ~頼むから新年感出さないでくれ~」
となる心。


振り返ってみれば、
私の2016年はこれまで生きてきたなかで最も振り替える価値のない、空洞の1年間だった。
得たものが何もない。悔しかったことも、感謝したいことも、幸せを噛み締めたこともなにもない、空っぽの1年だった。

別に誰かのせいにするつもりは毛頭ないし、なんなら自分のせいだとも思ってる。
だけど、こんな思いで新しい年を迎えるのが初めてで、
今まではつまらない1年を過ごしてても来年は頑張るとかそういう決意を持ってた。

今回はそれすらもない。2017年にも2017年の自分にも不安も期待もなにもない。
今はただ、三四郎のオールナイトニッポンを二日連続で聞けることにありがたみを感じながら、寝落ちするのを待つだけだ。

本当、クソみたいな大晦日。
クソみたいな2017年に期待してみようかしら。

考えたら負け

たとえば、

毎回鍵の閉まったトイレにノックしてくる空気の読めない自己中心的で融通の利かない尊敬できない父親のこととか、
22才にもなって未だに姉とあり得ないほど狭い部屋で生きてて、その消灯が早すぎて見たいテレビも満足に見られないこととか、
毎日アルバイトと教習所の繰り返しで感情の発散がラジオかテレビか映画でしかできなくて心が枯れ果てていることとか、
いつまで経っても恋人がいないどころか恋愛の気配すらなくて映画のような平和な恋愛を渇望してることとか、
この4年間で徐々に心が本来の自分から離れていって、自分が一番なりたくない自分になってしまっていることとか、
そんな自分を変えたいのに4年という月日が長すぎていきなり変われないこととか、
それじゃあ徐々に変わっていこうと決意する度に些細なことに苛立って自分の愚かさにまた落胆することとか、
昔の自分と今の自分がおんなじ人間だとは到底思えないこととか、


全部、全部、考えたら負けだよね(笑)
思考停止こそが最大の自己肯定に繋がるという今の自分の虚しさ。
普通、人間は考えることで変わっていくのに、
今思い浮かぶことは考えれば考えるほどネガティブな発想に繋がっていくから、
もう考えないことを学習したいよ。

最近歩いててもイライラするし、
夜には泣く。
便利な言葉「メンヘラ」
自分の理解できない感情の波を簡単に「メンヘラ」と分類して片付ける人多いよね。

就活終了2か月後からの(不毛な)後悔

 

 

8月中旬、内定先の最終面接があった。

結果はすぐに来た。他に1つしか持ち駒がなかった私の気持ちは、もうほとんど就職活動の終了へと向かっていた。

その残りの1コマの最終面接が8月下旬にあった。

終盤の持ち駒の中では最も志望度が高く、日ごろから「大好きだ」と思えるものに関する職業だった。

しかしそれは、私に欠けている創造力や発信力を常に強く要する仕事であり、

その力があることを面接の場でプレゼンテーションすることはできなかった。

ずっともらえていなかった「内定」がもらえたという解放感も手伝い、

最後の面接は完全なる「記念受験」状態で挑んだ。

 

 

というのは、どこから見ても言い訳に過ぎない。

最後の面接まで気を緩めずに準備できなかったこと、

アピールできるほどの素質や能力を何も持ち合わせていなかったこと、

これらを含めての不採用だったはずだからだ。

 

 

しかし、現在のゼミも活動がなく、授業もなく、(友達も彼氏もいない)宙ぶらりんな状態で様々な映画やドラマを見ると、

言いようのない後悔が押し寄せてくるようになる。

 

 

大変でも、好きなことなら頑張れるのではないか

夢を持ち続けられるのではないか

 

思い出すのはやはり高校時代の自分で、

あの頃は、惹かれる部分があったからある部活に入り、

大変な毎日ではあったが、あこがれる先輩もいたから頑張れたし辛いと感じなかった。

忙しいけど、それを充実感と捉えられた。

 

 

落ちてしまった会社の方がそれに近い気持ちで働けるようなイメージができる。

内定先ではどうだろうか。

 

 

なにはともあれ、

もうやり直すとはできないし、仮にやり直したとしても何か変わるのかという疑問もある。

なにより、まだ働いてすらいない。

それならば、自分の行動への後悔はほどほどにして、ここからいかに自分を変えていくかを考える方が先決であろう。

 

 

長年喪女やっていると、自分だけの世界で生きることになるから、

妄想だけがどんどん幅を利かすようになり、現実的な問題から遠ざかっていく。

もし、恋人の一人でもいれば、ささやかな日常に対してのありがたみや幸せを、

今の何倍も感じることができるだろう。

 

 

「いいなあ 愛される人は いいなあ」

 

ここにきて某ドラマの35歳童貞のモノローグが心に刺さる。

喪女はどんなことに悩んでも、結局ここに行きつくからだ。

このセリフは、一見ありきたりな、言い古されたフレーズのように聞こえるかも知れないが、全国の喪女・童貞の心をうまく表していると感じる。

つまるところこれなのだ。望むのは派手な幸せではない、ただただシンプルに「愛されたい」(恋愛というよりは人間愛のようなもの)

 

 

 

しかし、ひらまさだって味方のような顔で近付いてきたが、

ちゃっかりかわいいかわいい彼女と、ほっこりあったかい日常を始めていやがるから油断ならねえ。

 

自尊感情の低い喪女だから、小賢しいみくりちゃんみたいな彼氏が欲しい。

 

誕生日なんて大嫌い

 

 

この世の中に、

私よりも祝われずに22歳を迎えた私立文系女子大生がいるだろうか、いや、いない。

私の人生の中でも、最も祝われなかった最悪な誕生日だ。

(ちなみに、その記録は毎年更新されている)

 

~以下懐古~

 

高校生の頃は、朝学校に行くと部活の友達やクラスの友達がおめでとうと言ってくれた。プレゼントをくれた人もいた。

 

~現実~

 

それがどうしたことだろうか、カウントダウンの瞬間も一人ぼっちでむかえ、

当日も一人で過ごす。こんなにも寂しい誕生日を過ごすなんて、私の人生設計には一切なかった。

もちろん、数少ないラインをくれた友達のメッセージには感謝しているけれど…。

誕生日の人がいるたびにおめでとうと言い合うライングループが2つほどあるのだが、

そこでも私だけが祝われなかった。笑えない。みじめ。

 

考察① 誕生日アピールをしなさすぎる

 

「アピールをして祝われなかったらもっと悲しい」という特有のネガティブシンキングが働いて、「アピールをしないから祝われない」という当然かつ最悪な結果を生み出しているのだろう。

 

考察② SNSから遠ざかりすぎている

 

ツイッターは一度アカウントを消してからは少人数の友人のみをフォローし合っている。ラインというものもどうにも好きになれず、気分がのった時には軽快にチャットがはずむのだが、そうでないときには後先考えずに既・未読スルーをしてしまう。

その結果、SNSをコミュニケーションの中心と考える知り合いばかりの私は、スマートフォン利用者でりながら、いまだガラパゴス状態にあるのだろう。

 

SNSの普及は、このアン・ハッピーバースデー現象に拍車をかけている。

シェアが大好きないまどきの健全な大学生は、ケーキのプレート・おめでとうメッセージのスクリーンショット・数々のプレゼント(YSLの口紅とか)などの画像をインスタグラムにシェアする。

そして、サプライズであったこと・いつもお世話になっていること・これからもよろしくね・こんな私ですが仲良くしてねなどのエモーショナルな短文をツイッターに投稿する。

 

それを見た私は、自身の祝われなさが際立たされたような気分になって、

自己嫌悪&自己嫌悪&自己嫌悪×20000

といった具合に方程式が完成される。

 

祝う風潮がもしなければ、ただの一日として静かに過ごすだろう。

しかし、人であれば「友人・恋人・仲間」に祝われるのがふつうのこと

という概念が当たり前のようにそこに存在するから、

「誕生日」という一日、無駄に自尊心をズタボロにしながら過ごすことになる。

 

悲しくなってきたわ。

 

 

私、(精神的に)生まれ変わろうと思う。

 

 

私の心の中にずっとあるもの、

現れてから、今でもずっと追い求めているもの、

それが、高校時代の自分と、その毎日

間違いなく自分史上最高だった。

なにがかと言うのは難しい。全部だから。

性格も、環境も、生き方も、友達も、先輩も、学校も、すべて最も良かった。

さらにいいのは、当時の自分がその楽しさと幸せを実感していたこと。

 

だから、それからずっと、高校時代のような自分と生活を追い求め続けて、

あるいは、執着、固執して、今のおかしな自分がいる。

これは言い訳と見えるかもしれないけれど、自分の中では筋の通ったストーリー。

 

そして、カリカリした最悪な自分が出来上がった。

ある時ふと、変わるきっかけが見えた感じがした。

それを今、実践している最中。

上手くいくかは分からないけど、気持ちが軽くなった。

 

でも、言葉にして整理しないとモヤモヤしたままな(些細な)ことがいくつかあるから、それを書こうと思う。

 

まず、私は寒さに弱い。暑いとき、じっとしていると余計に暑さを感じるような気がする。だから、活動的になれる。

でも、寒いと予定がない限り動けなくなる。

教習所に行って学科試験を受けなければいけないのに、どうにも動く気が起きない。

 

次に、これまで、インターネットを使用した情報収集には慣れていたと思っていた。

バンドの最新情報やチケット発売に関する情報を漏らすことは(ほぼ)なかったし、アイドルのテレビ出演情報だって同じだ。

でも、映画の舞台挨拶というものはある種未知の領域だった。

公式アカウントが発する正直どうでもいいような(衣裳展や細かいインタビューや特集記事のこと)情報までしっかりと目を通し、舞台挨拶の情報が更新されるのを今か今かと待っていた。

あまりにも発表がないから、ツイッターで検索してみたりもした。(発表まだかなーという趣旨のつぶやきを多数発見)

それでも一向に発表されないから、もしかして舞台挨拶のないこともあるのかも…?と自分を納得させていた。いかんせん、舞台挨拶初心者なもので。

ふと思い出した公開前日の今日、改めて検索してみると、真っ先に公式アカウントのつぶやきが出てきた。

一週間前に舞台挨拶決定という情報が解禁されていた模様。

フォローしているのに、どうでもいい数々の情報やリツイートにも目を通して来たのに、一番大事な大事な、舞台挨拶の情報だけを取りこぼしていたなんて

不覚にもほどがある。

無論、倍率は相当なものであるから、チェックしていたとしてもチケットを確保できていた可能性は極めて低い。

でも、それでも、それなりに動向を追い続けていたものに知らぬ間にフラれていた気分は最悪。

自分の詰めの甘さに嘆く一日となった。

 

文化の日は久しぶりに友人と朝から遊んで、それはそれは充実した一日を過ごすことができたというのに、今日・明日の引きこもり具合が洒落にならず、また自己嫌悪のループに陥りそうだが、(精神的に)生まれ変わるということを決定したから、なんとか耐えよう。