8月中旬、内定先の最終面接があった。
結果はすぐに来た。他に1つしか持ち駒がなかった私の気持ちは、もうほとんど就職活動の終了へと向かっていた。
その残りの1コマの最終面接が8月下旬にあった。
終盤の持ち駒の中では最も志望度が高く、日ごろから「大好きだ」と思えるものに関する職業だった。
しかしそれは、私に欠けている創造力や発信力を常に強く要する仕事であり、
その力があることを面接の場でプレゼンテーションすることはできなかった。
ずっともらえていなかった「内定」がもらえたという解放感も手伝い、
最後の面接は完全なる「記念受験」状態で挑んだ。
というのは、どこから見ても言い訳に過ぎない。
最後の面接まで気を緩めずに準備できなかったこと、
アピールできるほどの素質や能力を何も持ち合わせていなかったこと、
これらを含めての不採用だったはずだからだ。
しかし、現在のゼミも活動がなく、授業もなく、(友達も彼氏もいない)宙ぶらりんな状態で様々な映画やドラマを見ると、
言いようのない後悔が押し寄せてくるようになる。
大変でも、好きなことなら頑張れるのではないか
夢を持ち続けられるのではないか
思い出すのはやはり高校時代の自分で、
あの頃は、惹かれる部分があったからある部活に入り、
大変な毎日ではあったが、あこがれる先輩もいたから頑張れたし辛いと感じなかった。
忙しいけど、それを充実感と捉えられた。
落ちてしまった会社の方がそれに近い気持ちで働けるようなイメージができる。
内定先ではどうだろうか。
なにはともあれ、
もうやり直すとはできないし、仮にやり直したとしても何か変わるのかという疑問もある。
なにより、まだ働いてすらいない。
それならば、自分の行動への後悔はほどほどにして、ここからいかに自分を変えていくかを考える方が先決であろう。
長年喪女やっていると、自分だけの世界で生きることになるから、
妄想だけがどんどん幅を利かすようになり、現実的な問題から遠ざかっていく。
もし、恋人の一人でもいれば、ささやかな日常に対してのありがたみや幸せを、
今の何倍も感じることができるだろう。
「いいなあ 愛される人は いいなあ」
ここにきて某ドラマの35歳童貞のモノローグが心に刺さる。
喪女はどんなことに悩んでも、結局ここに行きつくからだ。
このセリフは、一見ありきたりな、言い古されたフレーズのように聞こえるかも知れないが、全国の喪女・童貞の心をうまく表していると感じる。
つまるところこれなのだ。望むのは派手な幸せではない、ただただシンプルに「愛されたい」(恋愛というよりは人間愛のようなもの)
しかし、ひらまさだって味方のような顔で近付いてきたが、
ちゃっかりかわいいかわいい彼女と、ほっこりあったかい日常を始めていやがるから油断ならねえ。
自尊感情の低い喪女だから、小賢しいみくりちゃんみたいな彼氏が欲しい。